0317達人への道。

0317達人への道。


自分が、全力を投じて創造した作品は、素晴らしいと思うもの。
そして、それを作れたことで自信を持つものだ。
だが、作品に素晴らしさを感じ、そこから自信を供給して貰っている状態のままで。
その作品を世に出すのは危険である。


と言うのも、「世の中の評価」=「作品」=「自分の自信」
というリンクができてしまっているからだ。
世の中の評価が、自分の自信とリンクしているところが危険なのだ。
何故それが危険なのか?


上がると上がる。
下がると下がる。
つまり、世の中の評価(売上)が、上がると自信も上がる。
しかし、世の中の評価(売上)が、下がると自信も下がる。
すると、自信は、評価に対して受動的になってしまうのだ。


では、評価と自信をリンクさせないでなおかつ自信を保つにはどうすればよいか?
素晴らしい作品を生む。
それで自信を持つ。
だがその作品を、世に出さない。
切り捨てることだ。


もしくは、世の中に渡しておいて「自分自身」を消すことだ。
要するに、作品は世に出すが、自分自身を世に出さないことだ。
企業に渡した作品が企業から「これは素晴らしい。世に出しましょう」と言われたら。
自分自身が作品と切り離れることだ。


その後、その作品が企業の方でどう扱われてもほうっておくことである。
世に出された作品は、「世の中のもの」。
そう考えることだ。
その方が、世の中の人か手に取りやすいのだ。


作品を作って世に渡す。
その作品は「世の中のもの」と考える。
1人歩きさせることだ。
こうすれば、自分自身の自信と世間の評価がリンクしなくなる。


ここで大事なことがある。
それは、作品は切り捨てても、自分の中に熱いものが残っていることだ。
そうすれば、また新たに素晴らしい作品をつくることができるからだ。
ということは、そのような作品をつくることが大事なのだ。
要するに、「制作するプロセスにおいて、情熱がそそげるもの、既に感動があるモノ」である。


本は不動産。
そう思っていた。
だがそうではない。
本は、商品に過ぎない。


本だけでなく、どんな商品であれ。
「魂のこもったモノ」
「魂を込めて創作されたモノ」
それが、不動産となる。


不動産。
読んで字のごとく、「そこに在ることで価値を生み続けるもの」。
魂のこもった作品は、世に出ようと出まいと、触れた人の心に残る。
そして価値を感じさせ続ける。


すると、その人が気づくようになる。
あらゆる出来事の中に、その作品を見たり。
逆に、その作品のあらゆる意味から、一つの出来事を今までとはちがったモノとして見るようになったりできるのだ。
価値を生むきっかけとなるのだ。


そう、魂のこもった不動産作品は、それ自体に価値がある。
というより、外気と接触することで、価値が生成されるものなのである。
ドライアイスのように。


ドライアイスは、二酸化炭素を固体化したものだ。
外気に触れ、外気との温度差によって揮発する。
モクモクと二酸化炭素の蒸気を出すのだ。
ドライアイスの本体が不動産作品である。
外気は、日常の出来事。
そして、ドライアイスが出す蒸気が「価値」である。


達人が、竹を一刀で切り落とす。
観客は、「おお!!」と感嘆する。
だが、達人はおごらない。
「このようなことはたいしたことではない」と言う。
これは、謙遜でも我慢でもない。
余裕からそう言えるのだ。


すごいと言われた時。
「たいしたことはない」と謙遜する人は2タイプある。
①本当はすごいと思っているが、我慢している人。
②本当にすごいと思っていない。簡単なことをしただけだと思っている人。


この違いはどこから来るのか?
ストックされた技量の差からである。
ストックされた技量とは、「水面下の体積」のことである。


水面下の体積が大きい場合。
一つの技を見せたぐらいで有頂天にならない。
それどこか、「まだまだだ」と本心から言う。
決して自慢しない。
なぜなら、「1000在る技の一つを出しただけ」に過ぎないのであって、全然全力を出していないからだ。


逆に、一つの技を自慢し図に乗るのは、ストックが少ないからだ。
ストックが少ない場合、一つの技を披露すると「自分の50%は出した」と感じる。
大きく失った感じがする。
だから、それを埋め合わせるものを求めるようになる。
称賛を求めるのだ。
それで自慢をするのだ。


映画「インディペンディエンス・デイ」。
その映画の中で、ウィル・スミスがわめき散らすシーンがある。
UFOを撃墜し、その中から引きずり出したイカみたいな異星人を蹴りたくるシーンだ。
「ちくしょう!どうだ!どうだオラ!」と絶命した異星人を蹴りまくるのだ。
何故そんなことをするのか?
こちらの命が危なかったからだ。


もうダメかと思っていたのだ。
それが何とかなった。
命がつながった。
だから、喜びよりも失った感の方が大きくて、それを埋める必要があったのだ。
それを埋めるために「勝ち誇る必要があった」のである。
地球人は、突如訪れた異星人に対して決して余裕が持てなかったのだ。


一つの技を決めて見せて、「どうだ!!」と言うのは、ストックが少ないからだ。
ストックが山ほどある人は、「まだまだだ!!」と言う。


人生を全て投入したような、凄まじい作品をつくる。
それを見た人は、「この人はすごい。精一杯やったな。見返りを求めているだろうな」と考える。
ところが本人は、ちっとも見返りを求めていない。
そんなことがあり得るのだ。
それが「達人」なのだ。


「達人」を分析してみよう。
剣の達人と、そうでない非達人の違い。
それは、「技をどう捉えているか」である。
非達人は、「技で相手を斬る」ことを考えている。
相手を斬った場合、「成功だ」と喜ぶのだ。


達人は、そうではない。
斬っても斬らなくてもよい。
技を磨くのである。
技を試すためのきっかけとして相手と闘っているに過ぎないのだ。
つまり、「斬り倒すべき敵などどこにもいない」のである。


要するに、「なぜ相手を斬るのか?」の答えが、達人と非達人で異なるのだ。
達人は、こう言う。
「技を試したことの結果に過ぎない」と。
つまり、相手を倒すことを求めていない。
ただ、技がとても優れていて、やはり相手を斬ってしまうということだ。


達人は、相手に勝っても喜ばない。
「勝った」などと言わない。
だが、そこに喜びはある。
相手に勝ったことに対する喜び、ではない。
技が磨かれたことが分ったことに対して、喜んでいるのである。


逆に非達人は、「勝った」ことを喜ぶ。
技は、相手を倒すための道具、ということである。
試合に臨んだ時、達人は「技のやりとりを楽しむ」が、非達人は「勝利を求める」。
ゆえに、非達人はいつまでも敵を必要とする。


人生の達人と非達人。
非達人は、嫌いな相手を理論で打ち負かすことを求めている。
上司よりも賢くなり、上司をへこませることを求めているのだ。
だが、達人は、勝つことや打ち負かすことなど考えていない。
技を磨いて、試しに世に出してみるだけである。


それでたしかに、達人にへこまされる人も出てくるだろう。
だが、不思議なことに、打ち負かされても不快にならない。
「負けた」とへこまない。
負けや勝ちなどないような感じがする。
達人に包まれているような感じがするのだ。


非達人の理論は、武器として使われる。
そして、相手を倒し、勝つために使われる。
だから、負ける人を生産しているとも言える。
負かされれば、憎しみを持つ。
そしていつか、自分も同じ目に遭うことになる。


例えば著書や講義で「こんな人はダメだ」「こんな人は三流だ」「こんな人は二流だ」と言っている人がいる。
すると、いつしか力は逆転し、ダメだと言っていた人に叩かれるのだ。
世に叩かれるのだ。
なぜなら、「負け」を貰った人は、「勝ち」を得た人に、「負け」を与えたくなるからだ。


達人にとって、理論は武器ではない。
自分の人生を磨くための道具であり。
磨いている姿を公表するための道具である。
だから、その理論に触れた人は磨かれる。
そして、その理論に触れた人は自分も公表しようと考えるようになる。


つまり、勝ちを求める人は、周りの人に武器を渡しているようなものである。
成熟を求める人は、周りの人に、自分を磨く道具を渡しているようなものだ。
「刀か本か」
「美人認定証かエステ道具か」
どちらを貰うのが嬉しいだろうか?


達人のもう一つの特徴。
それは、「私は苦労してここまで来た」なんて言わないという点だ。
大抵こう言われる。
「運が良かった。恵まれた」と。
人に与えるべきなのは「果実」であって、「収穫の苦労話」ではないのだ。
苦労話を聞かされて、気分が良くなる人はいない。


成功なんて簡単なのだ。
人に喜ばれることをするだけだ。
そのためには、喜ばれるものを与えればよい。
果実を与えればよいのだ。


ところがそれができない。
いや、果実は与えられるのだが、「オレはこれを育てて収穫するまでこんなに苦労したんだよ」
という苦労話まで与えてしまう。
与えずにはおれないのだ。


それで、果実と苦労話を貰った人は、果実を貰ったことを素直に喜べないのだ。
逆に申しわけなくなり、じゃあもう果実は要らないよとなるのだ。
苦労話は与えないのが達人である。


0317達人への道。(完)