0090一人の時間に考えよう。

0090一人の時間に考えよう。


「人は一人の時間に成長する」
「一人でいる時間を持て」
と言われる。
だが実は、一人の時間があっても成長に繋がらないことをしていれば、
成長しないのだ。
逆に、人といても成長しようという心の働きがあれば、成長する。


夕暮れ。
やや暗くなった水面に、オレンジ色の太陽光が帯をつくっている。
黄金に輝く帯だ。
黄金を見たいなら、ここに来ればいい。
晴れていれば、毎日でも見ることが出来る。


頭上が騒がしくなってきた。
木の枝の中で、スズメたちが鳴いているのだ。
鳴いている、だがおしゃべりしているようでもある。
なんだか楽しげなのだ。
夕暮れのひと時。
生き物たちの楽しみ方は、それぞれである。


夕暮れ時。
川に面した公園のベンチ。
心は静かだ。
そして、少しずつ、さみしくせつなくなってくる。
オワリを感じているのだ。
夕暮れは、オワリを感じさせる時間なのだ。
そして、まるで人生の終幕のような感じさえもある。
というのも、ここから見えるものが皆、輝いて見えるからだ。


ある本で読んだことがある。
末期がんの人の話だ。
残りわずかな生を自宅で過ごしたいと、むりやり退院して、家に戻った時。
妻の顔が、子供たちの顔が、親の顔が、光り輝いて見えて、思わず手を合わせて拝んだ、という話だ。
人は死の間際、世界中が輝いて見えると言う。
死の宣告を受けてから、見えるもの全てが美しく輝くと言う。
まさに、地上天国をそこに見るのだ。
だが、その視力は死と隣りあわせなのだ。
なんという矛盾、なんというやりきれないせつなさだろう。


終わりがあるから、輝けるのだ、人生は。
もし、果てしなく続くとしたら、きっと途中でつまらなくなる。
有限だからこそ、生きがいがある。
有限だからこそ、生きがいを見出せる。
エキサイティングになれるのだ。
だから、オワリを感じよう。
有限を感じよう。
それが成長心(常に成長を求める心)を生むのだ。


人はその人生の中で幾度となく、他の人が死んでいくのを見る。
肉親の死顔。
骨になって壷に収まっていく、祖父母の姿。
その時、思う。
「自分もいつかは、ああなるのだな」と。
そのときこそ、考えよう。
「これから自分は、どう生きていくか」と。
どんな人生を生き、どんな幕引きにすべきかと。


「宝くじで1億当たったら、人生変わるだろうな」
多くの人がそう言う。
そして、宝くじを買う、買い続ける。
宝くじが当たるまで、人生が変わらない。
当たらないと、人生が変わらない、とでもいうように。


とにかく行動してみる。
何かが見えてくる。
例えば、1億円欲しいなら、
宝くじやロト6、競馬のWIN5を買い続けてみよう。
そうかんたんには当たらない。
ということが分かる。
今もっている願望がそうかんたんには成らないと実感する。
それもまた、1つの学びだ。


1つ学んだら、では次はどうしようかと考えることが出来る。
「どうやったら当たるのか研究してみよう」とか。
「1億なくても変えられるところがある」とか。
いろんな気づきや疑問が出てくる。
それを解決していこう。


自分を動かしていくのは、自分の疑問なのだ。
行動が大事なのは、疑問を生むからなのだ。
そして、はたからみると「あの人損ばっかりしてるよね」と言われていようとも、
自分で動くのは楽しいものだ。


仕事には、休憩がある。
労働基準法によると、5時間勤務では30分の休憩が、8時間勤務では60分の休憩が義務付けられている。
休憩をたくさんもらえばそれだけ楽になるのは日給月給が固定されている人だけであって、
時間給で働く人にとっては、それは給料ダウン以外の何でもない。
「休憩が増えると給料がダウンする」
それが嫌だと思うならば、それはお金のために働いている証拠だ。


突発的に生まれた3時間の休憩。
これを、「給料が減るよ、やだな」と腐るのでなく、いかに有益に使うか。
そこに、自分の創造力、成長度合いが問われるのだ。
例えば、パチンコを打ちにいく。
または、書店やコンビニで立ち読みする。
もしくは、お店でブラブラする。
これらは皆、消費活動である。
もしも、ブログを書くために街を散策し写真を撮ったり、
人に出会いに行ったり、公園のベンチで本を書いたり、
アイフォンアプリで作曲などをしているならば、それは生産活動であり、
有益な使い方である。


作詞、執筆、作曲、写真撮影。
こうした「自分の手の内から作品を生む創造活動」が人生のメインワークになってくると、
休憩が有益に使えるようになる。
いやむしろ、休憩を多く取りたがるようになる。
だから、休憩を多くもらえると、ありがたい。
どんどん作品作りが進むからだ。


人は、仕事時間では差がつかない。
というのも、誰だって仕事の時間は頑張っているからだ。
差がつくのは、こうした「休憩時間の使い方」なのである。
もしくは休日の過ごし方だ。
そして、出勤前と退勤後の行動である。
さらに加えるならば、早朝時間の過ごし方だ。
なぜなら、そういう自由時間は自分自身の創意工夫と意欲が最もものを言う時間だからだ。


仕事時間以外の時間。
ここを、いかに過ごすか。
ここで差がつくのだ。
仕事を全力でやって、充実感を持って帰宅し、
のんびりとビールを飲んで風呂に入って、
TVでプロ野球やドラマを見て寝る暮らしを20年続けた人と、
仕事を全力でやりさらに仕事をして、
自宅でライフワークに没頭し、
一日一冊読書をする習慣をつけ、
TVなど必要としない暮らしを20年続けた人と、
もはや埋めようのない差ができるのだ。


そういえば。
中学2年生の時。
英語の授業の宿題で、「英語で将来の夢を書く」というものがあった。
私はその宿題に、「アストロノーツになりたい」と書いた。
つまり、宇宙飛行士になりたいと。
なぜ、そう書いたのか?
他でもない、兄の英作文を真似しただけだったのだ。
自分のオリジナルの考えではなかったのだ。
というのも、その頃の私には、「将来の夢」が見つからなくて、書き出せなかったからだ。


それが気に入っているわけでもない。
自分の考えでもない。
ただ、「将来の夢は何か?答えよ」と言われて、
答えに詰まって、仕方なく、カッコつけで言ったのだ。
「宇宙飛行士になりたい」と。


人は、宿題や取材や公の場での発言において、明確なことが言えない時。
えてして「かっこいいこと」を言うものだ。
心にもないことを言うものだ。
そういうことが、実社会にはしばしばある。


「勘違いされた」と怒っても、
実は他人の勘違いは自分で作ったのだ。
自分が本心で言わないから、
そんな自分から受けた印象を口にした相手の言葉が、
「それは本心ではない」となって、
すなわち勘違いになるのだ。
「あいつ、勘違いしてる」と言うが、
その原因は自分が本心を言わなかったことにあるというわけだ。


一人でいると、自分の心の中を見つめることができる。
他人と一緒にいると、話で盛り上がり、楽しいときを過ごせる。
しかし、心に留めた話題意外は、全く忘れてしまうものだ。


今話題の芸能人の話、今話題のTVドラマの話。
それらはその時は印象深いが、時が経つと全く忘れてしまうものだ。
というのも、芸能人もTVドラマも、高速で入れ替わるものだからだ。
芸能人やTVドラマなんて、実はどうでもいいことなのだ、
ということは、年を取って人生が終わる頃に分かる。
が、終わる頃に分かっても、取り返しがつかない。


0090一人の時間に考えよう。(完)