0192人生はきっと素晴らしい


0192人生はきっと素晴らしい


無理やり押し付けられたならば。
いかなる優れた教育であれ、技術ノウハウであれ、その人を意欲づけることは難しい。
知識や技術は教育できても、やる気は教育できないのだ。
ところがやる気の扉を開いた人にとっては、もはや、あらゆる物事から学べるのだ。


自分の力には2タイプある。
①もともと備わっていた力。
②人生の途上で吸入した力。
①の力は、子供のころすでに発揮していた。
それを復活させてやり始めると、力は驚くほど伸びていく。
そういう本来持っている力を確証する特徴が一つある。
「いつから始めたのですか?」と聞かれた時、「ハッキリわからない」ことである。


昼休み。
ベンチに座ってせっせと何か書いている。
このスタイル。
この習慣はいつから始めたのだろうか?
確かに数年前はパチスロをやっていて、休みになると入り込んでいた。
がベンチに座って書くこともしていた。
今はもっぱらベンチ入りしている。
このスタイルが好きになった。


一度離れて再びくっついたものは、以前よりも結合力が強い。
骨折してそれが治ると、以前より折れた部分の骨が太くなっているのと同じだ。
夢・志・目的。
それらも一度手放してみよう。
いつの間にか再びくっついているものがあるはずだ。


その時は、嫌で辞める。
嫌いになって離れる。
その時の「もうやだ。こんなんやめだ」という気持ちは嘘ではない。
ところがいつの間にか戻っている。
再び手にしている。
そういうものがある。
そういうものには以前よりも深い愛着があるものだ。


人生には、「どんどん手に入れていく段階」と「どんどん手放していく段階」とがある。
面白いことに、価値を求める気持ちは手に入れる段階の方が強いのに、価値がわかるのは手放す段階になってからだ。
書籍なんて特にそうだ。
ブックオフに売り飛ばす前夜、その本の価値に気づいて、手を合わせ拝むのだ。


部屋の3分の1を埋める本棚と、そこに詰め込まれた数百冊の本。
手に入れる段階では、面白いように数が増える。
が、読む量は手放す段階に入ってからの方が早い。
読んだ本、あるいは読まなくていいやという本を、本棚から外していく。
本棚から外したものは、ブックオフに売り飛ばして社会に還す。
そういう時の方が本から得るものは多い。


力も同じことだ。
力をためる時と放出する時がある。
若いときにためた力が、年をとってから出てくるのだ。
若き日から、人の役に立とうと、いろいろ放出するのは素晴らしいことだ。
だが、「貯める時期を経ないと出せない力」というものもあるのだ。
と、最近気づいた。


貯める段階から放出する段階へのシフトチェンジは、ほとんど無意識的に行われる。
なぜなら貯める段階では「もうこれだけ貯めたんだからいいか」という思いが起こらないからだ。
貯める行為を止める条件が定めていないからだ。
いつの間にか、切り替わっている。
それで自然なのだ。


貯めるだけ貯めよう。
欲のままにむさぼろう。
ある時、貯める欲がなくなっていることに気づく。
そのころになって、貯めたものの価値を得られるようになるのだ。
「貯めといて、捨てるなら、初めから貯めなきゃいいじゃん」と言う。
だが、「貯めて捨てるプロセス」にこそ、大きな成長があるのだ。


自分で貯めたものを、自分で手放していく。
そこに真の自己成長がある。
人がたっぷり貯めたものを、一度にドーンと貰っても、成長は少ない。
また自分で貯めたものを人の手によって、ドーンと持って行かれても、成長は少ないのだ。
「自分で貯めたものを、自分の手で手放す」
ここに成長があるのだ。


「自分が蒔いた種は、自分で刈り取る」。
自分が蒔いた種によって成長したものは、自分で収穫し吸収する。
この格言は、「自業自得」という四字熟語と同じ意味である。
この格言は、ちょっとネガティブな印象の言葉だ。
でもポジティブに受け取ることもできる。
例えば「自分が蒔いた種を、自分で刈って食べるのが、一番美味しい」というように。


自分で貯めてきた本は、自分で処理していくことによって初めて、自分の血肉、肥やしとなっていくのだ
コツコツ貯める行為だけではだめだ。
コツコツ貯めた後、コツコツ捨てる行為がドッキングして初めて、大いなる財産が生まれるのだ。
目に見えない財産が。


死は、切ない、苦しい。
が、生まれたものが死ぬことなく生き続けられたら?
きっと、「生の喜び」や「生きることの素晴らしさ」はわからなくなるだろう。
死があるからこそ、生が輝く。
ただし生とドッキングした死があってこそだ。


「生ある死」
「死ある生」
生死がドッキングした状態の時、生命は輝くということだ。
「生ある死」とは。
後世に大きなものを残す死に方をするということ。
「死ある生」とは。
いつか自分が死ぬことを自覚した上で上手に美しく生きようとすることである。


人はいくらでも騙せる、が絶対にだませないのは、自分自身だ。
いいことをした。
自分がそう思えるならそれでいいのだ。
自己犠牲で自分が喜べるなら、周りの人がどんなに悲しんだってそれはそれでいいのだ。
自分を偽って、人に良いことをしても、良いことをした思い出として残りはしないのだ。


そういえば17歳から20歳の頃、友人コンプレックスだった。
友人がいないという事を恥ずかしく思っていたのだ。
が、「こいつオレのマブダチ」と言える人もいなかった。
今になって思う。
みんな友人だと。
そしてマブダチなんか探さなくていいのだと。
友人の限定をしない。
今いる人たちと、楽しむ。
世界と友達になることだ。


人生に意味はない。
前に進んだもの勝ちだ。
「意味が見つからないならやっても仕方ない」という考え方をしていたら、真の「無意味な人生」を味わってしまうだろう。
実は、人生には意味がある。
創り出せるのだ。
前に進むと、生まれてくるのだ。


人の体にはコントロールできる部位と、できない部位がある。
夜中に大きな物音がしてハッ!と目覚める仕組みは、コントロールできない。
眠気を振り払って起き上がることは、コントロールできる。
コントロールできるものは精一杯コントロールしよう。
それが充実人生だ。


公園のベンチに座って、物思いにふけっている。
思えば「今ここにいる自分」はコントロール可能なもの。
足元を動くアリ、風に揺れる木々、雲の流れといった自然は、コントロールできない。
まるで自分の中の仕組みと同じだ。
つまり自分と自然が仲良くすることは、自分の中のコントロールできるものとできないものを仲良くさせることと同じことだ。


「夏草や、若者たちの夢の丈」。
いつの間にか、うっそうと茂った夏草。
ひしめき合って、空を仰ぐ夏草。
まるで若者たちの夢のようだ。
知らぬ間にズイと伸びているものだ。
チャンスや準備を経て、一気呵成に伸びるものである。


アットホームな職場は居心地がいい。
確かに、いつも競争心がひしめいていたら仕事に身を入れる前に疲れてしまう。
しかし、厳しさがない点はマイナスだ。
厳しさと優しさ。
どちらがではなく、どちらも必要なのだ。


満足感は結果にはない。
プロセスにある。
全力をかけて作品を作る。
そのプロセスの中に満足感が生まれる。
ただ満足感を味わう時間がほんの少し遅くなるだけのことなのだ。
失敗しても全力でやったものは後々メリットが生まれる。
全力でやったというプロセスが、満足感をもたらすのだ。


人は生まれる家を選べない。
生まれた親を選べない。
この家族の一員になったということも、選んでそうしたわけではない。
となると、この運命に文句をつけても何もならない。
それどころか、文句を言った分だけが跳ね返ってきて、心にダメージを与えることになるのだ。
結局、自分を不幸にしていたのは自分の不幸感だったのだ。
不幸感、具体的に言えば、「理解不足」。


何の障害もない、真っ直ぐな道を走るのは気持ちがいい。
だが、飽きてくる。
眠くなる。
やはり緩急軟硬あってこそ、味わいが感じられるものだ。
成功の道。
歩むのが厳しい道を時には、みずから進んで歩んで行こう。
乗り切った時、力がついている自分がいる。


心に残る話。
それは言葉遣いの丁寧さとか、言葉の上手な使い方にはない。
愛がこもっていること。
真実を語ることだ。
テクニックではない。
人間味、つまり心の味だ。
心の味わい深さは、今までの歩みや意欲が生み出す。


「仕事は忙しい人に頼め」と企業ではよく言われる。
忙しいのは「能力が認められていて、仕事が集中しているから」であり。
なおかつ「信頼できる人だから」なのだと。
友人や恋人と会うことさえ断って仕事をする忙しい人であれば、よほど認められているのだ。


年をとらないと味わえないものがある。
それは、「人徳」だ。
若いうちは体力もあり、容姿も良く力も意欲も可能性も持つことができる。
だからこそ見えないのだ。
失わないと見えてこないものがある。
自分の表面がガラガラと崩れないと、見えてこないものがあるのだ。


人生は素晴らしい。
そう思える時というのは、感動した時だ。
人生で何万回感動できただろうか?
感動こそ、心にとって最良の栄養になるのだ。
心を躍動させ、行動を内部から推し進めていく力となるのだ。
今回の人生で、何万回感動できるだろうか?


0192人生はきっと素晴らしい(完)